2012年05月19日
東の空2223
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝は南城市知念岬公園からの撮影でございました。
一人ぼっちの岬公園の主の猫が歓迎してくれました。
そういえば会社の黒ねこが昨日帰ってまいりました。有難うございました。
2週間と4日18日ぶりで昨日は夕方に、今日はたっぷりと擦り寄る春ちゃんと遊びました。
商品の「春うっちん」にちなんで春ちゃんでしたので、大変心配しておりました。
もうひとつのクロネコはにーちゃんです。商品のノニ100%ドリンクにちなんで付けました。
二匹とも捨て猫で乳飲み子からです。もう3年になりました。
家では3匹の捨て犬を飼っております。5匹の犬猫から愛されていると思います。
一度は家内が食卓に置き忘れた犬食を健食と間違いちょっと味はありませんでした。
せっせと食べてしまいました。味も素っ気もない犬食でした。
そんなバカがつく私ですが、ご訪問くださりありがとうございます。
東の空にカメラを向けて日の出を待っておりました。
日の出(5時41分)27分過ぎて、お日様を拝することができました。
生かされて生きて感謝申し上げます。









雲の好きな方は雲の形から、いろんなことを考えるだしいですね。
私はみた家政婦ではありません。古い話で恐縮です。そういえば昔、祖国復帰前です
新聞1週間遅れは普通でした。
2012年05月19日
2012年05月18日
金環食
今日も一日金環食を見に鹿児島に行こうかと迷った一日でありました。
おうちでのんびりと決めることにした。てんとう虫に不思議と出会ったのです。
「女性諸君踊ってみませんかと募集いたしておりました」面白い記事に皆様にご紹介いたします。
太陽が好きな皆様こんなこともあるんですね。このブログyacco369は面白いです。ではどうぞ
↓
http://yacco369.blog.fc2.com/?no=48
タグ :天道虫
2012年05月18日
東の空2222
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝は天気に恵まれ,これを天恵と心友のえいさんはブログでよく書いている。
久しぶりに朝焼けを見て笑みを浮かべ、朝日に心踊る。
縄文時代の古の人々は鼓動をうっていたのか、共鳴して考え心を感じた。
ところは南城市あざまサンサンビーチでの撮影であるました。
朝日を拝することができました。
生かされて生きて感謝申し上げます。








2012年05月18日
2012年05月17日
比嘉正榮氏をしのぶ その5
それから何年かして残った者は7・8名と、有銘の地元方と賄いのおばさんだけだ。
忙しくなると手伝いに来る昔の同僚もいた。
手の回らぬ畑は県議仲宗根梶雄氏に任せた。それは広大なパイン畑の一部であった。
ガァバの木は(株)琉球植産の宮城仁四郎社長に譲ったと後から聞いた。
比嘉正榮さんが中心に植えたガァバの木であった。八重山石垣にすべて移植した。
選定が必要なガァバの葉で初めて(株)仲善がガァバ茶の製品を売り出す。
ガァバ茶と命名するときに宮城仁四郎社長が大笑いしながらガァバガァバ稼ぎなさいと言っていたのは昔になった。
ガァバの木は八重山石垣「琉球植産」安里有三専務に引き継いだ、今もその面影が八重山石垣にはある。
それより以前1968年頃「クミスクチン」を大栄インダストリーの與儀社長が健腎茶として発売する。
健腎茶の腎は腎臓のことであり。薬事法に觝触するので正式には「健賢茶」と書き「けんじんちゃ」と読ませていた。
しかし4・5年後若くして與儀実政氏は事故の後遺症で亡くなる。
私は腎臓が思わしくなく安里にある「サンエス薬局」を訪ねた。薬剤師の仲程さんがクミスクチ茶をすすめた。
私は長年わたり尿に濁りがあり残尿感があったが、不思議なことにしばらくすると改善された。
クミスクチン茶は確か「健賢茶」であったと思う。こんなにいいのに販売をしないては無いと思った。
クミスクチン草に恋をしてしまった・・・・・・・・
比嘉正榮さんとサンエス薬局の仲程先生にに呼ばれてクミスクチンの販売を勧められた。
私にとっては願ってもないことであった。
與儀さんがクミスクチンの植え付けを始めたので、君が飲みながら販売してみなさいと言うことだった。。
その後を継いで(有)稲穂産業)より(有)仲善がクミスクチ仕入れた。この時期が仲善の始まりになった。
車の営業をしながら、休みの土日は慣れている飛び込み営業っだった。
友人である比嘉正榮さん薬剤師仲程通一さんが後押しするように薬草製造業を進めてくれた。
このお二人方は株仲善の生みの親である。しかしながら大分迷惑をかけた。
1974年(S49年)(有)仲善がクミスクチン茶テーパックで初めて沖縄で発売した年であります。
稲穂産業では「クコ茶」も製造販売し、名護の街では比嘉正榮さんを初め街頭での販売をしていた。
那覇では山形屋で「クコ友の会」を即売と会員募集をしていた。
1975年(S50年)うっちんの話があると、多和田真淳先生の自宅に出向く。
沖縄の薬草業の変遷
比嘉正榮さんと私は首里の自宅を訪ねた。
記憶を辿りなが・・・・・・沖縄薬草の変遷は続く

1950年代の若かりし頃の左から多和田真淳先生 どなたですか?天野鉄夫先生
2012年05月17日
東の空2221
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝は南城市『知念岬公園』からの東の空の撮影でした。
昨日からの雨はいまは霧のような粉雨、顔に僅かに感じる岬公園です。
今朝も日の出前に周囲が暗いので海面が明るく見えました。
日の出の時間(5時42分)1時間も過ぎ帰り支度をしていた。
なにげなく東の空を眺めると、お日さまが顔を覗いている。
カメラを元に戻し撮影に入りました。朝日を拝する事が出来ました。
生かされて生きて感謝申し上げます。






今日も希望の光に照らされますように願っております。
明日は2222です青空に七色に輝く日ですかね。何か言いたくなります。
東京の青空から本が降ってきたのです。これ引き寄せの宝物でした。
2012年05月17日
2012年05月16日
比嘉正榮氏をしのぶ その4
比嘉正榮は稲嶺一郎先生から薫陶を受け、多和田真淳先生から は薬草のバトン渡される。
彼と最後にあったのは昨年の12月8日頃であったと記憶している。樹木の名称を聞くためだった。
彼の植物に対する知識は抜んじていた。沖縄植物の本を上梓するほどの造詣があった。
私は学んだ。二人して「カフェくるくま」で名護有銘の当時の話を食事を取りながらした。
話題は尽きず、この日が最後になった。もっと聞くべきことがあったのにと後悔している。
当時よく、彼が尊敬している多和田真淳先生の話をよく聞かせてくれた。
私が多和田先生に会いたいと話すと、すぐに取り次いでくれた。
時間に厳格な先生だから、約束の時間と帰る時間を伝えてあるから守るようにと念を押した。
当時の先生は執筆と研究に忙しかった。公務もあったが薬草と考古学は専門分野であった。
多和田真淳先生は戦後の「沖縄の薬草・考古学」の草分けであった。
薬草・考古の研究発見は枚挙にいとまが無い。あの尖閣諸島まで調査しているようです。やはり日本の領土とちがいますか。
その先生に見込まれて稲嶺一郎先生にいの一番に推薦されたのが比嘉正榮さんであった。
比嘉正榮さんが多和田先生の愛弟子になった瞬間であった。
比嘉正榮さんが本土の製薬会社から戻ると動きが早くなった。
稲嶺一郎先生と多和田真淳先生は比嘉正榮と三人で懇談した。
その中身は沖縄に製薬メーカーの基礎であった。沖縄が独立した時の琉球国民の生活だった。
将来は製薬会社を目標に薬草会社の立ち上げの企画書を見せてもらった。
その重責が比嘉正榮であった。彼は企画と研究に没頭する毎日でありました。
稲嶺一郎先生は・・・
よく寝食を共にした若者たちを集めて話することがあった。将来の沖縄のことだった。
昼食の合間に開墾した大地を見て話す。わざと取り残された大木を指さして話すのであった。
「あの大木を見て何を感じますか?」 一人の若者が「日陰にいいのではないですか」
「そういうことも出来ますね」 寡黙な若者たちは言いたいこともあろうが黙っていた。
「私はあの大木から家や机 腰掛と船までも想像します。もっとあるよね」
「あなたがた若者からは無限の可能性を想像しております」
「あなたがたが、この小さな沖縄を大きくさせる力を私は信じております」
気概のある人にと稲嶺一郎先生の教育熱心さを比嘉正榮さんは私に聞かせてくれた。
本土復帰の日が決まると、若者たちは前述のように動揺していく。
時代は変わる・・・・・・・

左からウォーカー先生、多和田真淳先生、天野鉄夫先生 誰?教えてくださ!
1950年代若かりし頃の多和田・天野先生3名は鬼籍に入る。
彼と最後にあったのは昨年の12月8日頃であったと記憶している。樹木の名称を聞くためだった。
彼の植物に対する知識は抜んじていた。沖縄植物の本を上梓するほどの造詣があった。
私は学んだ。二人して「カフェくるくま」で名護有銘の当時の話を食事を取りながらした。
話題は尽きず、この日が最後になった。もっと聞くべきことがあったのにと後悔している。
当時よく、彼が尊敬している多和田真淳先生の話をよく聞かせてくれた。
私が多和田先生に会いたいと話すと、すぐに取り次いでくれた。
時間に厳格な先生だから、約束の時間と帰る時間を伝えてあるから守るようにと念を押した。
当時の先生は執筆と研究に忙しかった。公務もあったが薬草と考古学は専門分野であった。
多和田真淳先生は戦後の「沖縄の薬草・考古学」の草分けであった。
薬草・考古の研究発見は枚挙にいとまが無い。あの尖閣諸島まで調査しているようです。やはり日本の領土とちがいますか。
その先生に見込まれて稲嶺一郎先生にいの一番に推薦されたのが比嘉正榮さんであった。
比嘉正榮さんが多和田先生の愛弟子になった瞬間であった。
比嘉正榮さんが本土の製薬会社から戻ると動きが早くなった。
稲嶺一郎先生と多和田真淳先生は比嘉正榮と三人で懇談した。
その中身は沖縄に製薬メーカーの基礎であった。沖縄が独立した時の琉球国民の生活だった。
将来は製薬会社を目標に薬草会社の立ち上げの企画書を見せてもらった。
その重責が比嘉正榮であった。彼は企画と研究に没頭する毎日でありました。
稲嶺一郎先生は・・・
よく寝食を共にした若者たちを集めて話することがあった。将来の沖縄のことだった。
昼食の合間に開墾した大地を見て話す。わざと取り残された大木を指さして話すのであった。
「あの大木を見て何を感じますか?」 一人の若者が「日陰にいいのではないですか」
「そういうことも出来ますね」 寡黙な若者たちは言いたいこともあろうが黙っていた。
「私はあの大木から家や机 腰掛と船までも想像します。もっとあるよね」
「あなたがた若者からは無限の可能性を想像しております」
「あなたがたが、この小さな沖縄を大きくさせる力を私は信じております」
気概のある人にと稲嶺一郎先生の教育熱心さを比嘉正榮さんは私に聞かせてくれた。
本土復帰の日が決まると、若者たちは前述のように動揺していく。
時代は変わる・・・・・・・

左からウォーカー先生、多和田真淳先生、天野鉄夫先生 誰?教えてくださ!
1950年代若かりし頃の多和田・天野先生3名は鬼籍に入る。
2012年05月16日
東の空2220
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝は南城市『知念岬公園』からの撮影でございます。
昨夜からの雨で濡れた道と霧の中を東の空に車を走らす。
岬公園の東屋に入りましたが、しばらくすると小雨の中の撮影となりました。
また今日も雨かとふと思うときもありますが、東北の被災地のことを考えると身勝手に思えてなりません。
こんな時こそ世界平和を祈り瞑想に入る時なんですね。
幸いにも日の出の時間(5時42分)まえに反射した朝日の光が雲の隙間から海をてらしてくれました。
ありがたい、遠い彼方の太陽に思いが届いた時でした。
生かされて生きて感謝申し上げます。

5時40分

5時50分 10分でこうも変わるのですね。



皆様の上によき訪れがありますように!!
明日は天気にな~れ(=^0^=)ございます。
2012年05月16日
2012年05月15日
比嘉正榮氏をしのぶ その3
☆妻から夫に贈る最後のラブレター☆
「輝く笑顔と 沢山の思い出を ありがとう」
貴方は小学生だった頃、近所の森から小さなガジュマルの苗木を持ってきて、盆栽として大切に育てたそうですね。
私と結婚した後も変わらず大事にしていたのですが、庭の土に植え替えてから たちまち生長し、
がっしりとした力強い枝をたたえ・・・
やがて、あなたががブランコを作り、近くに鉄棒やハンモックまでこしらえると、
子供達が笑顔寄せ合う場ができました。あなたの遊び心は息子や娘はもちろん、甥や姪、
その子供達にまで『お山の父さん』『お山のじいちゃん』と呼ばれ親しまれるほどでした。
五十年にわたり有銘の山の中で暮らし、時々宜野湾の自宅に戻る生活を続けたあなた。
人里から離れているぶん 様々な思いを募らせたこともあったでしょう。
しかし、皆に喜んでもらいたいという一心で、身体を使い、
工夫を凝らして目一杯に自然の素晴らしさを伝えてきました。花火にキャンプ、ミカン狩り。
瞳をきらきらと輝かせ、豊かな経験を積み重ねてゆく子供達の姿を、あたたかな眼差しで見守っていたものです。
こんなに一生懸命で幸せに溢れた毎日が、もっと長く続くよう願っておりましたのに、永遠の別れは訪れてしまいました。
眠る夫に「スイートピーとミカンを育てて待っててね」と伝えました。
きっと張り切って、両手一杯に抱えて待っていてくれることでしょう。
寂しいけれど・・・・・・・・・又会う日までしばしのお別れです。
2012年05月15日
東の空2219
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝は自宅から霧の街つきしろを後にした。。 目指すは南城市『知念岬公園』からの撮影であります。
知念半島どこも霧のまちでありました。潮風と霧は体にいいだしいですね。
昨日よりお日さまを拝する事は出来そうな様子です。
南から北に強い風が競いながら流れておりました。
目を離せません、そんなに大空の雲は忙しくしてどこへ行くのでしょうか?
もしかしたら、免疫力がつくと元気がでるのですか?
風邪に霧はいいですね。風には関係ないみたいです。
お日様を拝することができました。
生かされて生きて感謝申し上げます。







2012年05月15日
2012年05月14日
比嘉正榮氏をしのぶ その2
沖縄の薬草産業の変遷

若りし頃の多和田真淳先生 1950年代
稲穂産業が動き出した。
本土復帰はその後10年後になるが、誰も知る由もなかった。アメリカの属国は嫌だ琉球王国を夢見た
沖縄の独立を考えた稲嶺一郎であった。
若者たちとある時は寝食を共にしていた。自ら沖縄のこれからの食料自給を模索して先頭に立ち指揮をしていた。
パインの増産をはじめ牛の放牧の牧場・牛の餌は後に(一郎草)と言われた。
ミカンの品種改良と広大な植え付け・養蜂・日本国の知恵を借りて人材育成が稲嶺一郎の望むことであった
医療事情の先を考え薬草の栽培であった。うっちん・クコ・クミスクチン・グァバ・果実の栽培に追われていた。
比嘉正榮は琉球大学での研究を活かすために日夜研究を続けた。密かにバイオの研究に取り組んでいた。
琉大ではEMの比嘉照夫先生は比嘉正榮さんと共に研究をしたなかであった。
比嘉正榮さんも薬草・果物の研究で会社では地道に成果を上げてきた。
そのころバイオの話も出ないうちに、彼はバイオ技術で種無しグァバの研究に成功していた。
種無しグァバがなんだ、薬草がなんだ、それでも一郎先生の話を聞いて、彼は黙々と研究に取り組んだ。
いくら人がいても山の開発には人でが必要。研究の何を知らない者には休んでいるように見える。
彼は体を使って働くものに遠慮して、外に出て働いた。みんなの指揮を取り率先して肉体労働をした。
頭を使う仕事より働くのは若いし楽だった。研究はきつかった。彼は研究を休止した。後に沖縄に禍根を残した。
日本復帰が叫ばれると、金が動き出し若者たちは一人二人と山から去って行った。
実質的に責任者の彼と農場長は逃げることは出来なかった。彼は10人分も働いた。
彼を陰で支えたのは凛とした奥さんと可愛い子供さん達と兄弟たちであろう。
彼が76歳で逝くとは考えられない疲労困憊であったのであろう。
彼の体は山の中の空気や小鳥たち、牛たちの自然の山の妖精たちに癒されて生きてきた。
もしもということはないが、街での生活だったら強靭の体は100歳以上の長命であったと思う。
彼こそ沖縄薬草研究の立役者であった。
日本復帰後、彼が研究したことは後追いのようにみんなが始めたのを見てもわかる。
私は稲嶺一郎先生が沖縄産業の父であり。
多和田真淳先生が沖縄薬草の父
比嘉正榮氏は沖縄薬草の先駆者(実務者)といつも思っている。
沖縄の植物分類の一人者でもあった。
あすも続きます関係者に読ませてください。
比嘉正榮氏をしのぶ その1

若りし頃の多和田真淳先生 1950年代
稲穂産業が動き出した。
本土復帰はその後10年後になるが、誰も知る由もなかった。アメリカの属国は嫌だ琉球王国を夢見た
沖縄の独立を考えた稲嶺一郎であった。
若者たちとある時は寝食を共にしていた。自ら沖縄のこれからの食料自給を模索して先頭に立ち指揮をしていた。
パインの増産をはじめ牛の放牧の牧場・牛の餌は後に(一郎草)と言われた。
ミカンの品種改良と広大な植え付け・養蜂・日本国の知恵を借りて人材育成が稲嶺一郎の望むことであった
医療事情の先を考え薬草の栽培であった。うっちん・クコ・クミスクチン・グァバ・果実の栽培に追われていた。
比嘉正榮は琉球大学での研究を活かすために日夜研究を続けた。密かにバイオの研究に取り組んでいた。
琉大ではEMの比嘉照夫先生は比嘉正榮さんと共に研究をしたなかであった。
比嘉正榮さんも薬草・果物の研究で会社では地道に成果を上げてきた。
そのころバイオの話も出ないうちに、彼はバイオ技術で種無しグァバの研究に成功していた。
種無しグァバがなんだ、薬草がなんだ、それでも一郎先生の話を聞いて、彼は黙々と研究に取り組んだ。
いくら人がいても山の開発には人でが必要。研究の何を知らない者には休んでいるように見える。
彼は体を使って働くものに遠慮して、外に出て働いた。みんなの指揮を取り率先して肉体労働をした。
頭を使う仕事より働くのは若いし楽だった。研究はきつかった。彼は研究を休止した。後に沖縄に禍根を残した。
日本復帰が叫ばれると、金が動き出し若者たちは一人二人と山から去って行った。
実質的に責任者の彼と農場長は逃げることは出来なかった。彼は10人分も働いた。
彼を陰で支えたのは凛とした奥さんと可愛い子供さん達と兄弟たちであろう。
彼が76歳で逝くとは考えられない疲労困憊であったのであろう。
彼の体は山の中の空気や小鳥たち、牛たちの自然の山の妖精たちに癒されて生きてきた。
もしもということはないが、街での生活だったら強靭の体は100歳以上の長命であったと思う。
彼こそ沖縄薬草研究の立役者であった。
日本復帰後、彼が研究したことは後追いのようにみんなが始めたのを見てもわかる。
私は稲嶺一郎先生が沖縄産業の父であり。
多和田真淳先生が沖縄薬草の父
比嘉正榮氏は沖縄薬草の先駆者(実務者)といつも思っている。
沖縄の植物分類の一人者でもあった。
あすも続きます関係者に読ませてください。
比嘉正榮氏をしのぶ その1
2012年05月14日
東の空2218
さわやかな朝は健康のあかし!!!
今朝も南城市『あざまサンサンビーチ』からの撮影でございます。
見渡す限り雲にスッポリとドームの中の沖縄の空でした。
東の空に向い雲の彼方の太陽を心に描いておりました。
見たいと思いますが、気持ちは家路を考えておるんですね。
情けない「またユタ・ムニーイ」と笑っても構いません。
奇跡を望むならここだと思いました。
普通祈りをするとき願いをするとき、御心侭にとちょっと引いた祈りをする。
自然はどうすることもできないと、疑い心がどこかに隠れております。
本当に望むなら与えられると思いました。
祈りは聞かれるのですね。思いは引き寄せはどうしておこるのでしょう。
私は信じた頭は真っ白でありました。無・空。出来るとか出来ないとかの時空をはるかに超えていた。
突然雲が東に西に開いてきた。
やがて太陽は神の意志で輝いて、あらんことか地上を照らした。
太陽の笑顔を存分に感謝して撮しました。
二時三時のいまでも沖縄の空は雲の中です、それでも照らし続けている。
生かされて生きて感謝申し上げます。







2012年05月14日
2012年05月13日
比嘉正榮氏をしのぶ その1
私が見た沖縄の薬草産業の歩み
ここから始まった。
私が沖縄で初めて薬草会社を始めたのは、同級生の比嘉正榮さんの御蔭でありました。
5月11日帰らぬ人となった。昨日は私は2・3時間しかぬ眠れぬ夜を過ごした。
彼が私のところに来たのだろうか、親しい友人たちの家を回ったのだろう。
ものの2.3分では眠りにつく私が不思議な思いをしていた。なんでか?
今日は彼の告別式であった。
戦後の沖縄の薬草の先駆者・比嘉正榮は帰らぬ人になった。前知事・稲嶺恵一様も焼香にお見えになった。
1960年琉球大学を卒業を控えいた。前知事・稲嶺恵一の父故稲嶺一郎(参議院議員)が沖縄の薬草を産業にと思い。
沖縄薬草の父・故多和田真淳氏に真面目で気概のある沖縄男子を依頼した。研究熱心な比嘉正榮を紹介した。
1960年は沖縄薬草産業の夜明けであります。比嘉正榮は大日本製薬に沖縄から薬草の研究員留学をする。
1年後沖縄に帰り琉石産研の職員になる。まず沖縄市の高原に稲嶺一郎の指示でクミスクチン(薬草)を植えた。
後にこのクミスクチンが沖縄に薬草の原点になる。多和田氏と比嘉正榮は量産体制の基礎を築く乾燥法であった。
30坪の山を開墾した畑に植えていたのを私はあとに見に行った。薬草等々をかねて計画していた稲嶺一郎は名護市有銘
オオシッタイ地区に55万坪の農園を計画した、それには夢がいっぱい詰まっていた。
稲嶺一郎は沖縄復興を考え眠れただろうか。逸る気持ちを抑えたに違いない、見えるようであります。
(有)稲穂産業=琉石産研が始動した。沖縄の若い青年50名余、後にその中から幾人も著名人が出た。
稲嶺一郎の指揮のもとに朝は日の出と共に働き午後は日の入りともに終わる。若い青年たちは希望に燃えていた。
あすに続きます。
ここから始まった。
私が沖縄で初めて薬草会社を始めたのは、同級生の比嘉正榮さんの御蔭でありました。
5月11日帰らぬ人となった。昨日は私は2・3時間しかぬ眠れぬ夜を過ごした。
彼が私のところに来たのだろうか、親しい友人たちの家を回ったのだろう。
ものの2.3分では眠りにつく私が不思議な思いをしていた。なんでか?
今日は彼の告別式であった。
戦後の沖縄の薬草の先駆者・比嘉正榮は帰らぬ人になった。前知事・稲嶺恵一様も焼香にお見えになった。
1960年琉球大学を卒業を控えいた。前知事・稲嶺恵一の父故稲嶺一郎(参議院議員)が沖縄の薬草を産業にと思い。
沖縄薬草の父・故多和田真淳氏に真面目で気概のある沖縄男子を依頼した。研究熱心な比嘉正榮を紹介した。
1960年は沖縄薬草産業の夜明けであります。比嘉正榮は大日本製薬に沖縄から薬草の研究員留学をする。
1年後沖縄に帰り琉石産研の職員になる。まず沖縄市の高原に稲嶺一郎の指示でクミスクチン(薬草)を植えた。
後にこのクミスクチンが沖縄に薬草の原点になる。多和田氏と比嘉正榮は量産体制の基礎を築く乾燥法であった。
30坪の山を開墾した畑に植えていたのを私はあとに見に行った。薬草等々をかねて計画していた稲嶺一郎は名護市有銘
オオシッタイ地区に55万坪の農園を計画した、それには夢がいっぱい詰まっていた。
稲嶺一郎は沖縄復興を考え眠れただろうか。逸る気持ちを抑えたに違いない、見えるようであります。
(有)稲穂産業=琉石産研が始動した。沖縄の若い青年50名余、後にその中から幾人も著名人が出た。
稲嶺一郎の指揮のもとに朝は日の出と共に働き午後は日の入りともに終わる。若い青年たちは希望に燃えていた。
あすに続きます。
タグ :沖縄薬草の変遷
2012年05月13日
東の空2217
さわやかな朝は健康の証!!!
今朝は南城市『あざまサンサンビーチ』からの撮影でございました。
東の空は雲の壁がありましたが、隙間から朝日が覗きお日様を拝することができました。
やがてさんさんとお日様が輝きました。
こんな時には歓喜に心躍ります。
生かされて生きて感謝申し上げます。


























